碌山美術館
安曇野市には詩情豊かな美術館がたくさんありますが、人気の高い碌山美術館は、地元出身の荻原守衛(号碌山)の全作品を展示した美術館です。この美術館をひもといてゆくと大変興味深いことごとが次々と出てきて尽きない好奇心を刺激されます。少し長くなりますが、サワリを紹介しましょう。
荻原碌山は、旧穂高町の農家に明治12年に出生しますが、15歳時に地元の旧家の出身のキリスト者の相馬愛蔵や井口喜源治がやっていた禁酒会に参加し、そこでキリスト教に深く志向し、23歳で洗礼を受けます。
相馬愛蔵のもとには、明治28年、仙台から才色兼備なる21歳の星良が嫁してきます。彼女の女学校時代の師が、「到底何かやらなければ成仏できそうもない光」を放つ彼女の瞳の輝きを「暗光」と呼んだことから転じて、「黒光」という不思議な呼び名が生まれ、相馬黒光として世に名を残しています。相馬夫妻は後に、東京に出て、新宿でパン屋の老舗「中村屋」を創業し、その中村屋のサロンが明治大正昭和を通していかに多くの文化の交差点になってきたか知れません。
黒光は、仙台の典型的な没落士族に生まれ、平凡な少女にすぎなかったのですが、真山寛(真山青果の父)が校長をしていた高等小学校に入り、その隣にあった仙台神学校の教会に通い、何かに目覚めるように、たちまち“アンビシャス・ガール”になっていくのでした。仙台神学校はのちの東北学院で、植村正久とともに日本のキリスト教活動のリーダーシップをとった押川方義の創立によるもので、近代日本の“北の知”ともいうべきを札幌農学校と分けあったところです。先練された都会的感覚の持ち主の黒光が安曇野に嫁してきた背景には。当時親交のあった国木田独歩や傾倒していた田園詩人ワーズワースの影響もあってかと言われています。宮城女学校で問題を起こし、退学して、フェリス女学院に転入し、ここで後に木村熊二と結婚する上級生の東儀隆子と親しくなり、そこで巌本善治の『女学雑誌』のとりこになると、そのホームグラウンドともいうべき明治女学校にさらに転校します。
木村熊二は、勝海舟の計らいで、欧米の視察団に参加した人ですが、米国でキリスト教に触れ、牧師となって帰国し、妻鐙子と結婚しますが、鐙子は植村正久が創立した横浜バンド系の下谷教会で婦人会のリーダーであり、夫妻は女子教育に熱意を示し、明治18年に明治女学校を創設したのです。鐙子がコレラで急死したため、木村師は退き、巌本善治が二代目校長になります。木村師は小諸に小諸義塾を創設して別の教育に寄与するのですが、小諸義塾に赴任した島崎藤村は、その縁により、明治女学校の教鞭も取っています。黒光は、その藤村の講義を「石炭ガラ」と酷評しているのが面白いですネ。明治女学校は、明治42年に閉校となる短命な学校でしたが、羽仁もと子・相馬黒光・野上弥生子といった女流文化人を搬出したのです。
さて、安曇野に嫁入りした黒光は、嫁入り道具と共に一枚の絵画を持参しました。「亀戸風景」というその一幅の風景画に、青年荻原碌山は強く魅入られ、芸術への開眼となりました。それは同時に黒光への憧憬から思慕にも通じていたと言われます。この運命の油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)は、実物大の写真が碌山美術館本館の入口近くに展示されています。
井口喜源治は、小学校で教えたのち、研成義塾という私塾を創立します。彼の教育理念は「偉い人でなく良き人になれ」ということばによく表されています。碌山は塾生ではなかったのですが、研成義塾創立以前から井口喜源治に師事し、創立後は、絵の勉強のために上京するまで、助手のような形で井口喜源治を助け、また、夜学で、彼から英語やキリスト教を学び、大いに啓発され、井口喜源治との出会いがなかったなら、現在われわれが知る碌山は存在しなかっただろうと言われます。
20歳になった荻原碌山は、黒光の紹介のもと、井口喜源治とともに巌本善治を頼って上京し、明治女学校内に小屋を建て仮寓し、画塾に通います。井口と共に内村鑑三の講談会に出たりし、この頃に受洗します。23歳で渡米し、ニューヨークの画学校に入学しました。25歳時にロダンの「考える人」に感銘を受け、彫刻を志向するようになります。さらに27歳時には高村光太郎の来訪を受け、後々までの深い親交を結びます。
やがて憧れのロダンに師事し、彫刻の腕に磨きをかけ、「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していきます。この頃から「碌山」と号するようになりますが、この雅号は、渡欧中に彼が愛読した漱石の小説「二百十日」に出てくる「碌さん」をもじったものであったといいます。しかし、その語調の中には恩師「ロダン」の名前のもつ響きが暗に込められているようだとも言う人もいます。
帰国した荻原碌山は、相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいし、青春期に安曇野で出逢って以降、若くして他界するまで、碌山の相馬黒光に対する深い思慕は変わることがなかったのです。明治43年に「女」と題される作品が完成しました。完成後まもなく碌山のアトリエに案内された黒光の子供たちが、一目見るなり「あっ、母さんだ!」と叫んだというその塑像こそは、碌山最後の、そして明治期最高の傑作といわれる作品です。
「女」を完成してほぼ1ヶ月後の4月20日、中村屋の奥にあった相馬家の居間で友人達と談笑中、突然に吐血した碌山は、それから2日後の早暁、相馬夫妻や駆けつけた多くの知己が見守るなかで絶命しました。時に碌山31歳5ヶ月、天才にありがちな夭折でした。東洋のロダンと高い評価を受ける彫刻家になっていました。
碌山美術館は、地元の小学校の校長先生が、碌山作品の石膏像をブロンズにして保存しようと唱えた事からその作品と資料を永久に保存し、一般に公開するための美術館建設へと運動が広がり、地元の多くの人達や、全国から寄せられた29万9100余人の募金などの熱意に支えられ昭和33年4月22日碌山の死の48年後の命日に開館されました。長崎の26聖人殉教者記念館を設計した、今井兼次早大教授の設計になるものですが、キリスト者であった碌山の思いを入れ、蔦のからまるチャーチスタイルで表現し、明治時代の雰囲気の中に作品を展示するためにレンガ造りとしたそうです。中の調度家具は全て地元松本の人の手により北欧農民風です。
荻原碌山、木村熊二、巌本善治、相馬黒光、井口喜源治や木下尚江など、安曇野文化が花開いた意味は、臼井吉見の大河ドラマの大作「安曇野」に詳しく、興味津々に読めます。
井口喜源治の誤りではないでしょうか。
投稿 碌山のファン | 2008年5月 6日 (火) 15時35分